(タイトルは特に決めていない)

京央惨事(ケイオウサンジ)コラム過去ログ書庫。

【花岡】選別する自由【徒然】

ふ、と。ここから先に書くことは、私(花岡)個人の気持ちです。

 


例えば生活必需品。食料や消耗品は、ないと生きていけないのでお金を出して買う。トイレットペーパーも洗剤や石鹸もお米もパンも野菜も、もしくは電気やガスや水道。

生活する上でなくてはならないものにお金を払うのは当然、というかどうしようもないことで、お金を払わなければ手に入らず、手に入らなければ生活できないので買う。

 


では演劇はどうだろう。

演劇に関わらず、芸術作品というものは、全くなくても生活には困らない。そんなものに触れなくたって生きていけるし、なんならあっても邪魔になるだけかも知れない。

 


だけど私たちは、それらをお金を払って頂いた対価として提供している。

生活に全く不必要なものを。

 


この、生活に不必要なものにお金を出す、という行為は、お金を出す側が選別することができる。

 


なくても困らないものであるからこそ、それに対して本当にお金を出してまで見る価値が、聞く価値が、読む価値が、手に入れる価値があるものなのかどうかは、消費側の判断に委ねられる。

 


選別していい、と私は思う。

どの演劇作品を観に行くのか、どんな映画を観るのか、どんな本を読むのか、どんな美術館でどんな趣旨の芸術に触れるのか、どんな感性を自らが手に入れるべきなのか、手に入れたいのか。

それは個人によって全く求めるものが違っていいし、それが『芸術』と一括りにされているのだと思う。

 


また、きっとそれらを提供する側(芸術家、作家、演劇人、その他のアーティストの方々)には、提供したいだけの価値が自分の中にはあると思う。

というより、なければこんなことをしない。

何かを訴えたい、伝えたい、感じてほしい、気づいてほしい。もしくは単純に、自分の作ったものを見てほしい、聞いてほしい、触ってほしい、読んでほしい。

それは言わば提供する側のわがままな欲求であり、なんとも身勝手な思いなのだ。

 


だけど先述した通り、受け取る側には、それを受け取るべきか否かを考え、判断し、拒否することもできる。その自由は奪えないし、それを持っている限り、提供する側は受け取る側へ押し付けることはできない。してはいけない。

 


私自身に置き換えて説明すると、例えば何か演劇の公演に自分が出演する際、近しい人にはご案内を送る。

それを「見たい」と判断して下さる方もいるし、「特に見たくない」と判断される方もいる。

「見たくない」と判断された方に、「どうしても来て!お金払ってでも観る価値あるから来て!チケット売らないとヤバイから来て!」と押し付けるのは違うと思うし、私はしたくないのでやらない。

(もちろん、見に来てくださる方がいたらとっても嬉しいし有難い。)

 


つまり、私たちは何か『生活には不要なもの』を提供したとき、それをわざわざ選別してお金を出してまで買って下さる方がいる、ということを、忘れてはならない。

特に演劇作品であるならば、時間と、劇場に来るまでのご足労と、そしてチケット代と、様々なものの対価として演劇を求められていることを、忘れてはいけない。

感謝と尊敬を忘れず、受け取って下さった方の中に何かを残さなければならない。

演劇作品であれば、「面白かった」「また見たい」「感動した」「笑った」「泣いた」なんでもいい、何かを感じてそれをお得と思って頂ければ、私は役者として舞台に立った甲斐があったと思える。

 


チケットを売ることを第一に考えるカンパニーも、ある。

大して面白くもない脚本や演出で役者にばかりチケットを売るよう、強要してくる集団も、悲しいことだが実在する。

『客出し』という文化が、お客様に感謝を伝える為ではなく、またチケットを買ってもらえるようにと促す為に根付いている部分も、少なからずある。

やりたい人はやればいい。私はあまり、そう言った営業としての客出しに気乗りしないだけだ。

(なので基本的に「ありがとうございました」しか言えなくなり、「また来て下さい」や「またお会いしたいです」「これからもお願いします」等は言えない。それはお客様がそう感じて下さっていたら嬉しいが、こちらから強要するものではないと思うから。)

 


話を戻して、あくまで私個人の感覚だが、役者は本当に見てほしいと思える舞台に立てば、勝手にチケットを売るようになるし、なんなら本当に面白そうな舞台なら役者が売らなくても勝手にチケットは売れていく。

この考えが「役者としてのプロ意識が足りない」と言われることもあるだろう。その考えは妥当な評価だと思う。

だけど、「面白いものを提供する側のプロ意識」もそもそも足りないのでは。と思ってしまう。

先述した通り、芸術作品というものは、受け取るか否かを選別する自由が誰にでもある。

私は「この芸術は不要」と判断されたものを、押し付けたくはない。

(もちろん、販促活動はする。SNSへの公開、ご案内の送付、口コミでのお誘い、ビラの配布、出来ることは出来る限りやった上で、の話。)

 


なんだかつらつらと変な話をしてしまった気がするが、私は、自分が舞台に立って発信側にいる以上、「面白くない」ものを売りつけたくはないので、だったら自分が「面白い」と納得出来る現場に関わっていきたいし、選別する自由を持ったお客様に「見てよかった」と感じて頂ける役者でありたい。

という、結論はそういう話でした。

 


今回はこの辺で。花岡でした。