【花岡】善と悪【徒然】
先日行った花火大会でのこと。
この花火大会は東京の中でも閑静な河原で行われ、知名度もそんなにないので穴場の花火大会である。
打ち上げ時間は1時間程度、毎年1万発の花火が打ち上がるが、来場者数は35万人程度と少なめ。
都心からは離れているので交通の便は悪いが、『東京の花火大会』にしてはかなりゆったりと観賞できる。
とは言え、やはり35万人が一堂に会すれば、帰りは大混雑である。
花火の打ち上げが終われば、会場に設置された六ヶ所の出入り口に人が殺到する。
その出入り口の横にのみ、ゴミ箱が設置されていた。
殺到した退場者たちは、帰り際にこぞってゴミを捨てる。
しかし大混雑の中、なかなかゴミ箱の前までは直接向かえない人たちも数多くいた。
その中の数人が、土手に設置された簡易出入り口の坂から、ゴミを投げ捨て始めた。
最初は数人、そしてその欠如したモラルはあっという間に広がり、みんながゴミを投げ入れ始めたのだ。
係員は、「ゴミを投げないで下さい!人に当たる可能性があります!危険な行為ですのでお辞め下さい!」と叫ぶ。
しかし【一定の数量】に達したモラルの無さは止まらない。「赤信号みんなで渡れば」状態である。
そんな中、浴衣を着た女性二人組が「ゴミを投げるのは辞めて下さい!」と、ゴミ箱の横から出入り口に向かって叫んでいた。
彼女たちの一人は綺麗な浴衣にシミを作り、恐らく投げられたゴミに当たって汚れてしまったのだろう。
彼女たちは懸命に、大多数の欠如したモラルの塊に対し、たった二人で【正しいモラル】を振りかざして戦っていた。
最終的には、そんな彼女たちを疎ましんでわざと二人にゴミを投げつける人たちもいた。
ここまで来るとこの構図は、もはや【悪VS善】の攻防である。
【悪意】というものは、得てして数量の多いものに深く伝染する。悪意が浸透するのは善意よりも早い。
これだけの数がいれば、みんなやっているんだから、多少後ろめたいことも【普通】の感覚になり、【悪意】に染まる。
一時的な【善意】では人を【善】には出来ない。
だが一時的な【悪意】は、一瞬で人を【悪】と成す。
彼女たちの「ゴミ投げ捨て禁止の叫び」が抑止力を持つようになるには、毎年のようにこの花火大会を訪れ、花火大会の運営側とも連携を組み、ゴミの投げ捨ての禁止を呼び掛け、徐々にその運動の理解と協力の数を増やして行くしかない。
きっと数年単位でかかる一大プロジェクトとなるだろう。
一方でゴミを投げ捨てる人にとってその行為は、たった一夜の少しばかりの悪さだ。
個人個人のほんの少しの悪意が、一夜限りのモラルの欠如が、集まり肥大化し大きな【悪意】となる。
人間とは単純で難しい生き物だなぁ、と思う。
己の一時的な感情の起伏に流されず、常に自分と向き合い続けることが出来れば、こんなに簡単に悪意が剥き出しになることもないのに、そのコントロールが難しい。
だけどだからと言って、自分のコントロールまでをも失いたくはないと思った。
みんながやっているから自分もいい、とか、こんな状況下で善意を振りかざすのは馬鹿らしい、とか、そんなことを考えたり感じたりしない人間でいたいと思った。
悪に気付けば自ずと善も見えてくる。
ただ、それを悪と自覚するかしないかであるとも思う。
私たちはその日、押し寄せる人混みの中、なんとかゴミ箱の前まで辿り着き、ゴミ箱に直接ゴミを捨てて帰路に着いた。
帰りの電車の中、私と同居人は二人でちょっとぷんぷんしていた。