(タイトルは特に決めていない)

京央惨事(ケイオウサンジ)コラム過去ログ書庫。

きょうだい【鐸木】


お久しぶりになってしまい、すみません(各方面に言いまくっててもう言葉の意味をなさない気がする)
そういえば私は小学校の時から交換日記をやろう!と友人を誘っては真っ先に止めるタイプだったと、しみじみと思い出しています。どんどんうちに蓄積されていく交換日記の罪悪感。
こんばんは鐸木です。
そろそろ浮上しなければと思い、筆をとっています。
遥か昔に花岡さんから回ってきたお題を消化しようと思います。

 

きょうだい。
私のきょうだいは妹が2人。なんだか結構な確率で驚かれるのだが(どういう意味だろう)れっきとした長女だ。
少なからず一人っ子オーラを纏っているのはなんというか多分、妹たちと十歳以上年齢が違うからだと思う。次女が生まれたのは私が小学生の頃だったのでそれまでは筋金入りの一人っ子だったのである。
何だか言い訳がましい感じがしてきた。
今、次女は大学生で三女は高校生。眩しい盛りだ。
しかしもし私がこの二人と同じ学校の同級生だったら、絶対同じグループに属していなかったと思うのだ。
まずは母と私の話からしないといけない。母は中学高校とずっとバスケ部で青春をすべてバスケに注ぎ、その後体育系の短大へ行き体育教師を目指していたというバリバリの体育一筋の生き方をしてきた。そんなわけで子供にはどうしてもバスケをさせたがった。実家の近くにある中学校はバスケの全国大会の常連で、ここは母の母校だ。私もこの学校に通った。結果から言うと私はバスケ部に入ったことなどない。既に保育園の頃から「散歩がしんどい」「走るのは疲れる」とかなり早い段階で身体を動かすことの楽しみを放棄していた私は、小学校に上がっても外で遊ばず教室にこもり(ドッヂボールなんて大嫌いだった)、高学年になって始まったクラブ活動でも演劇部を選んでいた。そんな子供が中学に入ってバスケをやろうと思い立つだろうか。母は「バスケ部やろうよ!」と私を誘ったが答えはもちろん「死んでもイヤ」だった。母はさぞがっかりしたことと思う。私も何故この母があって引きこもりド文系の娘に育ってしまったのか。(その真相は大かた祖母が握っているがその話はまたいつか)
その後、私の中学担任は何の因果かバスケ部の顧問で、母とは家庭訪問で大いにバスケ部トークで盛り上がり、盛り上がったついでに「私はバスケ部に入りなよって奨めたんですけど死んでもイヤって言われちゃってー!」と暴露され、一人気まずい席になった。
そんなわけでバスケを放棄した私がいたわけで、その期待はもちろん妹たちへ向かったのだった。
ところが、妹たちは確実に両親の運動神経を受け継いでいた。
とにかく大いに違ったところは「足が速いこと」だった。
次女も三女も走ればクラスで1、2を争うタイムを出し、運動会のリレー選手の常連だった。(私はというと皆が一桁台のタイムで走る距離を二桁タイムで走っていたし、何もないところでよく転んだ)
母はもちろんバスケ部のアプローチをかけ、妹たちは特になんの渋りもせずバスケ部に入った。
妹たちは期待以上にバスケ部で大いに活躍した。次女はパワーは少し弱いが足の速さと仲間への気配りがありチームをまとめるのがうまかった。三女は当初は身体が小さかったが成長につれて筋肉が付いてきて男子にも劣らないパワープレイヤーになった。体育館の端から端までボールが飛ばせるらしい(驚愕なことだ。あんな重いバスケットボールを)
もともとバスケの強い学校だったのもあり、大きい大会にしょっちゅう出ては活躍していた。ジュニアバスケの雑誌の取材も来たりしていた。
そんな妹たちのバスケの試合を観に行くのが母の楽しみになったのはいうまでもない。

きょうだいで違うなあ、と感じる。
こんなに違いが出るんだなあ、と。
私の幼少期と妹たちの幼少期では周りにいたひとたちが結構違っていて、環境が違うとやっぱり同じきょうだいでも違ってくるのだと思う。
この二人と私は父親が違うのだ。

 

違う違うといいつつ、やっぱりきょうだいなので纏ってる空気感はなんとなく似ているような気がして、2人といると安心する。

今、次女は大学に入り栄養士を目指していて彼氏とラブラブだ。
三女は高校で相変わらずバスケをしていて、ここんとこ2.5次元系にハマっているらしい。
私はというと30を目前としながらこんな文章を書いている。
三人そろってまったく違う道を歩んでいくんだろうなあ、と思いながら、またみんなでご飯を食べようという約束をするのだ。

 

* * *

 

さて近々お知らせごとがありますが、もう少しお待ち下さい。
次は花岡さん『消化』