(タイトルは特に決めていない)

京央惨事(ケイオウサンジ)コラム過去ログ書庫。

『母』について【花岡】

 


どうもこんばんは。花岡です。
鐸木さんからやりづらいバトンが回ってきましたが、回ってきたものは受け取らなければならないので書いてみようと思います。
やりづれぇなぁもう。


私にとっての『母』は、もしかしたら鐸木さんにとってのお祖母様に似ているのかも知れません。
正確に言えば、鐸木さんの叔母様にとってのお母様。
過保護でおせっかいで口ばかりうるさく、「娘(私)のため」を振りかざして愛情に似せた支配欲を駆使してくる存在。
私も多感な頃は、母を親とは思っていなかった。


私は幼い頃、「ママは二人いる」と思っていた。
眼鏡をかけているママと、かけていないママ。
母は外出するときや仕事をするときは眼鏡をかけていたが、家に居る時は眼鏡をかけていないことが多かった。


眼鏡をかけているママは、私にとって恐怖だった。
外食をしているとき、肘を突いてしまったり咀嚼している音を出してしまうと、口より先に手が出る人だった。口にものが入っている状態で喋ると口元を手で塞がれ、喋るなと一喝される。食べかすを零そうものなら汚いと罵倒される。
よく体を引っぱたかれたし、言葉も乱暴で「どうしてそういうことをするの」「なんでこんなことも出来ないの」が口癖だった。幼い私は何が悪いことで何が良いことなのか分からず、眼鏡をかけたママと居る時は「ママを怒らせないように」が行動の原則だった。
眼鏡をかけたママはいつ怒るか分からない。とにかく機嫌を損なわないように必死で、ママの顔色を窺いながらビクビクしていたことをよく覚えている。
正直眼鏡をかけているママとの食事は、味もよく分からないほど苦痛だった。


対して眼鏡をかけていないママは、大好きだった。
たくさん抱っこしてくれて頭を撫でてくれて、なほは良い子、なほは可愛い、といつも言葉にしてくれた。家で一緒にご飯を食べていても引っぱたかれることも罵倒されることもなかった。私の食べかすをひとつひとつ拾い上げては自分で食べ、お茶碗をひっくり返してしまえば真っ先に私の体を拭いてくれたし、眼鏡をかけていないママの作った料理は世界一美味しい。
ママ、明日はね、保育園でお芋さん掘るんだよ。あら、じゃあ明日の夕飯はなほの取ってきたお芋さんで煮物作ろうか。なほはね、お漬物が食べたい。はいはい、きゅうりの浅漬けね。でもね、今日のたけのこも美味しいよ、なほたけのこも好きだよ。なほはお野菜もいっぱい食べて良い子ね、お茄子は? ……ナスはやだ。ピーマンも嫌いでしょ? ……お肉と一緒ならピーマン食べれるもん。じゃあまたピーマンの肉詰め作るね。うん、そしたらなほもピーマン食べるよ、でも明日はお芋さんね。お芋さんはママも堀りに行くよ。え、ママと一緒にお芋掘るの? そうだよ、楽しみだね。うん、楽しみ。
翌日、芋掘りに来たのは眼鏡をかけたママだった。私の絶望感は言うまでもない。


そして、4歳になる前だろうか。
私はようやく、眼鏡をかけたママとかけていないママは同一人物だと理解した。


その時のことはぼんやりと覚えている。
眼鏡をかけていないママが、眼鏡をかけているママの眼鏡を拭いていた。私はぼんやりと、ああママがママの眼鏡を拭いてあげてる、と思っていた。その拭いた眼鏡をママはかけた。眼鏡をかけたママだった。
ママってママだったんだ。私はそう口走っていたし、母もなんとなく記憶にあるらしく、「この子何言ってるんだろう」と思った、というのはここ最近聞いた話である。


私が小学校高学年の頃からだろうか。母はヒステリーを起こすことが多くなっていた。
私が小学校4年生の頃、母は病気で子宮を全摘出した。
その頃から私が高校生になる頃まで、母はよく家の中でも外でも所構わず癇癪を起こし、私や父に当たり散らし、怒鳴りつけ、物を投げ、時折父を本気で怒らせ、父からいい加減にしろと怒られた母はこの世の終わりとばかりに悲嘆した。
なんだこれ。これが私の家族かよ。これが私の母親かよ。親かよこれ。
私はこの頃、自分自身を俯瞰で眺める時間が多くなり、母の癇癪もそれに当たられている自分も母を止めようとする父のことも、全てを他人事のように感じることが上手くなっていた。


私は、時を同じくして不眠症になった。
眠ることが出来ず、夜になると眠れないことに焦り、泣き、朝になれば学校に行けと母から叩き起こされる。
小学校5年生の頃に初めて眠剤を処方されて以来、私は現在に至るまで眠剤を飲み続けている。
大学生の頃から心療内科に通い始め、そこで病名を告げられた訳だが、今はそこには詳しく触れないでおこう。


近年の父は、よく私と対話しようとする。
何が一番辛かったの? そうだね、ちょうど眠れなくなった頃から、いじめにもあってたから、それかな。あれは、いじめだったの? だと思うよ。俺は、母さんや先生からは、友達同士の行き過ぎた悪ふざけって聞いていたよ。ああそう、じゃあ私が勝手に傷付いていただけかもね。でもそれが原因で今こうなっているわけでしょう? どれが一番の原因かなんて私には分からないよ。いじめは、転校したときから? そうだね、転校先で、だったね。転校したくなかった? 学区が違ったんだから仕方ないんじゃない、転校しないと。ごめんな。何が? 俺は何も知らなかったよ、全部母さんに任せきりだったから。別に父さんのせいじゃないよ。転校、させなければ良かったなぁ。まあ、したくはなかったけど。じゃあお前、今の家に引っ越してきてから、あの家に良い思い出ないんじゃないのか? そんなこともないよ、高校の頃は友達もいっぱい出来て楽しかったし。俺もきちんと育児に参加すれば良かったなぁ。父さんはよく公園に連れて行ってくれたり、楽しかったよ。そうかなぁ。


この歳になって思い返せば、恐らく母は、いわゆるワンオペ育児に近かったのだろう。
確かに幼い頃、私が「ママは二人いる」と勘違いしていた頃、父が家に居ることは珍しかった。朝は私や母より先に家を出て、夜は私が寝る直前に帰ってきて、一人で食卓について夕飯を食べていた父の背中を覚えている。
だがそんな忙しい中でも、父は休みの日はほとんど必ずどこかに連れて行ってくれた。大体公園で、遅めの朝ご飯を食べてから出掛けて日が暮れるまで公園で遊び、楽しかった。


母は、子宮を全摘出する前まで、働いていた。両親共働きの家庭だった。だが、私が一人で家でお留守番していた記憶は、ない。必ず家には母がいた。母は働いていたはずなのに、それは父も同じだったはずなのに、私の日常の世話は母の役目だったのだろう。そして時折の休日を父とも過ごせることが、きっと当時の私にとっては特別だったので、「嬉しかった記憶」として残っているのだろう。


きっと母は私をきちんと育てたかったのだろう。
どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘に、常識のある人間に、誰からも好かれる人間に。それが母の役目だったのだろう。


現在、母はやはり、時折癇癪を起こす。
だが一番酷かった頃よりは落ち着き、外で暴れることは少なくなった。
主に家の中で、飲酒をした後に癇癪的になることが多いように思う。
私は未だに、母のことを時折、「何だこれは」と思ってしまう。
母のことも自分のことも、俯瞰してしまう時もある。


たまに思うことがある。私はひとりっ子なのだが、ここにきょうだいがいれば何か変わっていたのかも知れない。
母が私に過大な期待をすることも、父の不在が多いことへの不安感やそれに伴う責任感も、少しは軽減出来ていたのかも知れない。
もしも、の話にはなってしまうが。


ひとりっ子だったので、ひとり遊びは得意になった。
主にディズニーやジブリのビデオを見ることが多かった。他には絵本を読むこと、パズルを組み立てること、お人形さんとお話すること、架空の友達を作ること。一人でお留守番こそした記憶はないが、当時私たちが住んでいたのは保育園からも山一つ越えた場所にある辺鄙な谷戸で、歩いて行ける距離に友達はいなかった。
気楽に一人で遊ぶことに慣れてしまったものだから、逆に団体行動が苦手で、それもまた母を不安にさせる要素だったのだろう。


今、私が母に対して感じているものは、ある意味他人事なのかも知れない。
これら全てを「母のことを思えば仕方なかった」、「環境のせいだった」、「母なりの愛情表現だったんだ」、で整理を付けるには、私にはまだ時間が必要みたいである。


書き終わって読み返してみれば、全く自分の近況を語っていないことに気付く。
とりあえずわたわたと忙しくはしています。まだご報告出来る段階ではないものが多いので、それはまた後日。


ということで鐸木さん、次は『きょうだい』で。
(全然交換日記になっていなくてごめん。)